昭和五十六年九月二十六日 朝の御理解
御理解 第六十七節 「何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長           う続かぬ。」
 一つの信心の信心の教えが一つ一つ身についていく事だと思うんです。はあ、金光様の御教えこの御教えは素晴らしい御教えだと、だからこの御教えを一つ本当に自分のものにしようと言うように、それに徹してまいります。でこれだけはもうあちらのまあ一つの流儀ともなり、まあこれはあちらの独壇場だというようにですね。そういう一つの事に徹していくという事と同時に私は信心が釘づけではないという事は、そういう教えをですね一つ一つ自分のものにしていくという事だと思うですね。
 例えば合楽で、成り行きを尊ぶ大切にする。もう土の信心でというふうに言われますから、これはどこまでも地の心といわれておりますね。
 成り行きを尊ぶとか土の信心とかいうのは地の信心です。ですから、これにはやはり、なら、天の心も伴うてこなければならない、ね。そこには言うなら限りない、まあ無条件の美しい、こう条件のない美しさとでも申しましょうかね。
 もう天の心と言えば、麗しの心だと、もう無条件だと。与えて与えてやまぬ心だというふうにまあ説かれます。だからその土の信心に言うならばそういう天の心が又、一つそれに大きくなっていくというね、次にはその事がいわゆる日月の心といわれるのですからね。日月のいよいよ実意ていねい神様信心という事になりましょうかね。 言うならば、又は信心の節度という事をここでは申しますね。節度が出けてくる、ね。というようにですねやはり信心がまあ何んというですかね、その人のレパ-トリ-というものが広がっていくという事だと思うですね。
 だから信心もだんだん大きく育っていくだけではなくて、おかげも限りない。私はこの信心が出けたらこれでよかというようにきめたらそれだけの事です。そういう、言うならば一つ一つを自分の信心に血に肉にしていくという事が楽しみという事ね。 それは一つの事に徹するという事は大事です。けど一つの事に徹する事が、ね、二つの事にも三つの事にもね広がっていくという事。まあ、最近一まわり大きくなるというような事が言われますけれども、まあそりゃいろいろにありますけれども、なら今日の御理解に申しとりますように、これはもうあの人の独壇場だと言うものがですね、一つ一つ増して大きくなっていく。成程信心は釘づけではない。そこには確かな手応えがね、一まわり大きくなりぁ大きな修行が要るでしょう。一まわり大きくなる為にゃやはり修行が要りましょうけれども、修行が楽しいのです。一まわり大きくなるという実証が必ず生まれてくるのですから、ね。自分はこれ位の事が出けておるからね、私しゃこれで一本で行こうと、成程それでも尊いです。けれどもそれに徹底していくという言わば全ての事に何事にも信心になるという事はね、今日はそういうふうに私は感じます。釘づけではないと言う事をそういうふうに思うね。それが楽に出けていくようになる、ね。
 いろいろありますね。合楽の信心がまあ、地の心をシンとしておるように思うんですけれども、これに言うならば、天の心、限りない美しい心を育てていこうとする精進。それにはやはり手立てがいるんです、ね。その手立てをなろうと思うただけでは出けません。少しは修行ですけれどもね、先だってからのあのう結城先生のお話じゃないけれども、ね、その手立てをちった難しいけども、その手立てを手にかけていかれる中に、小学校が中学に、中学が高校にというふうにこう進んでいっておられます だからおかげもそれに伴うて大きくなって行っております。だからそれに手がけるという事は、それだけその修行に取り組むという事ですからね、言わば天の心をこれに頂いて行こうと言う、昨日二十五日の婦人会でしたから佐多先生が司会をしておりました。先だってあるところで、あるまあ合楽を知らない、だから佐多先生を通してまあ知りたいといったような事からだったでしょうか、合楽の信心を求められた。
 合楽にはあれだけの御比礼が輝くという事は、もう合楽の親先生が言うならば、成り行きを尊ぶとか土の信心に徹していかれると言う話をしたけれども、これは一つも相手にわからなかったと、そしてまあ向こうの方が結論出されたのは、とにかく合楽の先生という人は欲が無いという事だろうとまあ言われたとこう言うのです、ね。
 だから、なら、はじめから無欲なというような事があるはずはない。もう、様々なもう小さいそれこそ我情我欲でいっぱいであった私がだんだん土の信心なら土の信心成り行きを尊ばせてもらうという生き方をいよいよ身につけていっておりましたらねおかげを頂いて、そのおかげに対する、言うならば、まあ答えとでも申しましょうかね、それが言うならば我情我欲を言うては馬鹿らしいだけではなくて、我情我欲を言うては勿体ない、というふうにこう変わって来た、ね。なかなか確かに、無欲であるという事は、まあおかげを頂く元でしょうけれども、その無欲というても人間が感ずる欲とね、いわゆる神情、人情と言われますが、神情による無欲というのはだんだん変わってくる。言うならばまあなら、欲が高度化してくる。言うならば小賀を捨てて大賀に生きぬけとか、小欲を捨てて大欲に生きぬけとかいうような御理解を昔頂いた事がありますけれどもね。その大欲なんですね。だから、小欲を言うておったんでは大欲につながりません。合楽の場合はもう極まりない、言うならば信心にも進展を遂げておるように思います。
 いつも釘づけではない。合楽に日参をしておった人が一月お参りをしなかったら、それこそもう大変な変わり方をしておるというて皆さん驚かれますように、確かに皆さんは毎日こうやって日参なさっとられるから、変わりばえというものを感じられないかも知れませんけれども、一寸離れて見るとそれがわかる訳です。ね、
 だからお互いのめいめいの信心もやはりこれだけは私は御用が出けておれば、これだけの信心が出けておればというところからですね、もう一つ言うならば輪を広げて行くという、自分にはまあ日月の心が欠けておるという気づいたならば、本気で言わば正確無比と言われる日月の心、ね。言うならば信心にぴしっとした節度を以てね、それの精進に取り組ませて頂く。それが自分のものになってくる時にそこにはきちっとしたおかげが約束されるのです、ね。
 釘づけでない。自分の信心を釘づけにしてしもうてはならん。いつも絶えず求めて止まない、ね。次の信心、自分の信心に欠けておるもの、足りないもの、これが出けとるからもうよいという信心が、私は釘づけの信心だと思うですね。
 絶えず求めてそこに新たな信心を求めて行こうとする心にね、言うならレパ-トリ-が広がっていく。おかげの範囲も広がっていく。一まわり大きくなるという事はねそれにはそれだけのなら、一まわり大きゅうなるというただけで、大きゅうなれるもんじゃない。一まわり大きくなる為にはその修行が必要でありね、その修行が大きくなっていく修行が育っていく楽しみがね頂けるような信心を釘づけでない信心というふうに今日は聞いて頂きました。
           どうぞ。